「変えようとするな。変わろうとせよ。」


「何かが上手く行かないとき」

人生には必ずそういった時もつきものである。
そういう時は大抵“変えよう”と必死に努力しても報われないものである。

そうなったときに、「何故みんなわかってくれないの?」と思考してしまうことでオナニズムがはじまって行ってしまうと僕は思っている。


僕の知っている言葉に以下のようなものがある。

「なんで周りが変わらないと思う?あなたが変わらないからよ。」

僕は昨年の春ぐらいからこの言葉を胸に刻み困難に立ち向かって来た。


環境を変えたいとき、考えを変えたいとき、何かを変えたい時に「自分は努力した」と思い込み「自分が変わる事」を忘れていやしないだろうか?

「自分の価値観」に従って周りを変えようとしても誰もついてくるわけが無い。

自分の理想=集団全体の理想

とは限らない。寧ろ、自分1人の理想を実現するために行っている努力は努力ではなく圧政である。自分の考え方とは異なる価値観へと目を向ける必要があるのではないだろうか?


異なる価値観から考えても明らかに「変えた方が良い」ケース等も時にはある。

極端な例で考えてみよう。
「貧しい孤児がお金を得る為に殺人罪をおかした。」
これはどんな価値観がそこにあったにせよ「変えて行くべき」ケースである。

しかし、この時に一概に「殺人は犯罪だから孤児を罰する事が正義。」と考えてしまうとオナニズムが始まって行ってしまうと僕は思っている。例えば、その孤児が貧乏な孤児であるが故に日々望まぬ性的暴行を受け続けていてある日そんな生活に限界が来て殺人罪をおかしたとする。

それでも殺人は許される事ではないが、単純に殺人罪をおかしてしまった孤児を罰することでこの問題は解決するだろうか?おそらく答えは否である。ではどうすれば良いのか?相手の背景や考え方を知る事でより理想的な解決策を模索する事が可能になるかと思う。

僕は「相手の立場に立って相手の価値観を受容した上で一緒に考える。」事で初めて問題は解決すると思っている。それにも関わらずのっけから相手の意見やものの見方を否定していては何も産まれない。


僕は何かを変えたければまず自分が変わる必要があると思っている。

「相手の価値観を受容し、その上で一緒に考える。」とは言ったものの全く異なる価値観を「嫌だ。」「嫌い。」で片付けてしまわずに受容するのは容易なことではない。相手に自分の意見を聴いてもらうにはまず自分が相手の意見を聴くところから始めるべきなのではないだろうか?


再三サークルの話に帰結してしまい申し訳ないが、この考え方は意外にどこにいっても応用できると僕は思っている。

僕の友人であり、僕が絶対的な信頼をおいている友人のブログに以下のような記事がある。

「後輩」という大きな括りで外側から眺めているばかりではなく、後輩とフラットな視点に立った上で、一人ひとりと対話し、自分の思いについて意見を交わすこと。これこそが先輩として、いや、サークル員としての我々に求められている態度なのではないだろうか。一方的に意見を押し付けるだけでなく、後輩たちが思っていることを、後輩たちの意志を汲み、その上で持論を展開する。相手の話を聞く。このほんのちょっとの気遣いで両者の溝というものは解消されるのだ。

「後輩に”残す”ということ」より

これは「先輩から後輩」に求められる事だけでなく、「後輩から先輩」・「同期から同期」に求められていることでもあるように思える。彼も述べているように、コミュニケーションをとる際には常にフラットな視点にたった上で相手の話を聴き相手の意志を汲んだ上で話す必要があるのではないだろうか?

彼とは何個も一緒にバンドを組んで一緒に歌ったり、一緒にサークルライブを企画したりしてきたが、「他者の理想を実現するプロ」である彼がこういうのだから間違いないと僕は思っている。


何かを「変えようとする」さいには尚の事それが大切である。

相手の意志も汲まずに「変えよう変えよう」と「変える努力」だけを行っていてはせっかくの努力もただの迷惑行為になりかねない。


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