第二言語習得の視点から見る音感。


「私は日本人です」という文章が「私に日本人です」という文章であったら違和感を感じるように、ある和音の後に別の和音がなった場合に心地良く感じる場合や、逆に違和感を感じてしまう場合もある。それが和声である。

【cha1ra’s blog / 和声入門編】より引用


本日今学期初のゼミ活動に行って来た。
僕は第二言語習得ゼミに所属し、初等教育における英語教育の活動案について研究している。本日は初回ガイダンスと言う事で自己紹介や前提知識の説明などがあったのだが、その際にふと思ったことをblogにまとめてみる。

※僕は今学期でこのゼミは3回目。ガイダンスも3回目なので流石に飽きて来た。笑


僕は「音感=言語」だと思っている。
知らない言語を聴いても何を言っているか全く聴き取れない。それと同じで聴いた事の無い音を聴いても何もわからないのが現実である。

【cha1ra’s blog / クラシックは何故敬遠されるのだろう。】の答えもここに尽きると思う。「popsでは「歌詞」という言語を「音感」という言語に付加することで大衆に「音」が伝わるようにしている」というのが僕の見解である。

音感があれば、「おしゃれな和音」「凄い和音」「大胆な音の動き」等がわかるが、音感がない人には何もわからない。「シファソ」と言ってもパッとおしゃれな和音が頭の中で鳴らないのだ。「音感」と言う言語の習熟度が低ければ「シファソ」と弾いてもそれが何なのかわからないこともありうる。


つまり音感が無ければ音楽をピュアな音楽として楽しむことは難しい。どうしても歌詞やリズムと言う補助を介する必要が出て来てしまう。

自分の子供に音感をつけてあげないのは彼/彼女の人生の娯楽を1つ奪っているといっても過言ではない。僕は今音感養成プロジェクトと言うコラムを書いているがこれは実際には音感をつけているわけではない。


「音」も「言語」。
6歳までに聴いた事の無い音は聴こえなくなる。ずっと20年間日本にいた日本人学生が英語のネイティブスピーカーの発音を聴いても再現できない理由はそこにある。「再現できない」のではなくそもそも「聴こえていない」のだ。これを言語学では”臨界期”と呼ぶ。

※正確にはちょっと違う。


僕が連載している音感養成プロジェクトは幼少期に聴いて来た音を想起させ、「君が知っているこの音を”ド”って言うんだよ。」って気付かせるためのものである。

つまり、そもそも幼少期に”ド”をまったく聴いて来なかった人に対しては意味をなさないのだ。僕は音感の取り戻し方、呼び起こし方は知っている。しかしながら僕は音感の付け方は全くをもって知らない。


“音”も一種の“言語”なのだ。
“音”を”音”単体で伝えるには相互に音に対する理解が必要だし、”音”に対する理解を深めるには幼少期からそれらに触れている事が大切なのではないだろか?


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