【読書感想文】岩本悠「流学日記」を読んで②【自分とは誰か?】


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いきさつ

高校時代の「自称・俺は人に本を勧めたりしない男」から「どうしてもこれだけは読んでみて欲しい!」と紹介された本を読んだので久々に読書感想文と言うものを書いてみたいと思います。

ただし感想全てを書くと本当に長くなってしまうので記事を2つか3つにわけて書いて行きたいなと思います。2本目の今日は「自分とは誰か?」について。今世の中はどんどん国際化していますよね?海外の人や物がどんどん日本にも入って来ております。そんな国際化のなかで「自分とはだれか?」についてこの本を読んで思った事を書いてみたいと思います。



まずは持論!日本人は視野が狭い!
まずは本の感想を書く前に僕の意見を書かせてください。
自分とは誰か?と問われた際に国籍をうるさく言うのは僕の経験だとアジア人ぐらいです。それとイギリス人でしょうか?今は随分と減ったそうですがアメリカで3年間学んでいると「アメリカ人とは一緒にされたくない!」と言う印象を受けるイギリス人が何人かいました。それとアジア人は物凄く国籍に拘っていたような気がします。

授業のグループディスカッションの際の自己紹介でも台湾人Aが「I’m from Taiwan.」と言った瞬間に中国人Bが「Oh, me too! I’m from China!」と喧嘩を売り大変な思いをした事があります。

僕はね。日本の政治家にも同じ事が言えると思うんですよ。
みんな口を揃えて「日本の経済を」とか「日本の政治を」とか言うんですよね。アメリカの大統領は「世界から核兵器を」って言いますよ。日本人って本当につまらないです。企業の社長にしても「日本企業に○○と言うメリットを」とか言っています。

そんな持論を持った僕がこの本を読んで何を思ったことについて書いて行きたいと思います。


岩本さんがケニアでみたもの!日本人は卒業?
ケニア人は「I’m Kenyan.」とは言わない、と岩本さんは書き綴っておりました。ケニア人は「I’m Massai.」等のように部族を名乗るそうです。これを読んだときの僕はかつての日本を思い出しました。

龍馬は「土佐藩出身!坂本龍馬!」とは名乗りますが「日本人の坂本龍馬!」とは名乗りません。これは龍馬が動乱の時代において<日本人>としてのアイデンティティーをもっていなかったからでしょう。同様に岩本さんは「ケニア人は<ケニア人>としてのアイデンティティをもっていない」と書いております。

続けます。
岩本さんは「関西人」が自身のことを「関西人」そして東京に住む人間を「東京人」だったり「関東人」と呼ぶ事を滑稽だと言っておりました。出身地に拘って人を語ろうとするのが滑稽だと。しかし岩本さんは気付いたのです。「I’m Japanese.」と言う言葉も同じであると。

自身を「日本人」と呼ぶ事により<国籍>に捕われて人を語っている、と。ナショナリティーを自分のアイデンティティーとして語っている限り、<国籍>で人を見てしまっていると。そしてこれからの動向をこのように予測しておりました。

長い歴史の中で
氏族、部族、国家と広がって来た人間のアイデンティティーの次の次元は<人類>であると。

この岩本さんの言葉を見た時僕は思ったのです。

Michael Jacksonも歌っておりました。”We are the world.”って。
Michael Jacksonも歌っておりました。”Heal are the world.”って。
まさにそのことなのではないでしょうか?”We are the American.”でも”Heal the Nation.”でも無いんですよ!時代はWorldなんです。そして僕等はHumanなんです。日本人として日本に生きている自分がどこか小さく思えました。


Who are you?
岩本さんは同書でこのように書かれておりました。
大事なのは「自分がどこからきたのか?」ではなく「自分がなにものなのか?」である、と。

<自分がナニ人か>ではなく<自分がナニ者か>

※上記斜体部・同書p.228より引用

いくら英語が達者なアメリカ人でもつまらないやつはつまらないそうです。
でも逆に英語が下手な日本人でも金髪の女の子に迫られたりするものだ、と。「自分はなにものなのか」といきなり問われてもすぐにこたえられる人間なんていません。たぶんすぐに答えられるのは余程考えているか、余程うすっぺらな人間ぐらいだと思います。

「自分がなにものなのか。」
今日から頭の片隅で常に考えながら生活したいと思います。


まとめ
氏族→部族→国家
と、広がって来た人間のアイデンティティーの次の次元は<人類>だと岩本さんはおっしゃっておりました。その証拠に今や世界から国境は消え始めております。同書にも「地図にあるはずの国境」という表現が使われている箇所がありました。そこは本当に国境が文字通りの意味でなかったようですが、今やパスポート1つで世界を飛び回れる時代です。

だからこそ「日本の」と箱の中を、重箱の角をつつくように覗き込むのではなく、その外の世界にもっと目を向けたいなと思いました。そのためにも、自分はなにものなのか、しっかりと見つめたいです。


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