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某まとめ系のサイトでとりあげられていた記事が面白かったのでそれをもとに少し不登校について考えてみました。
実は数年前から遠くもなく近くも無い微妙な距離の親戚が不登校になりまして。
まあ彼にも彼なりの事情が色々あったのかと思うのですが、それを期に不登校について色々考えるようになりました。
不登校については色々な考え方があって「学校に行く行為事態が偉い」って考える人も居れば「無理をして行く必要もない」って考える人も居れば「行くことが正義ではない」と考える人も居ます。マイノリティーに目を向ける事は大切(そもそも行く必要が無いと言う考えをマイノリティーと言っている時点で問題ですが…)で、そういった人の意見も尊重すべきだと僕は思うのですが、先ほど紹介したサイト中段の“元悪人がいいことをすると「偉い!」と言われる世の中を斬る!”と言うコラムがあまりに正論だったので紹介します。
「学校に行かなかった子供が学校に行った時に偉いと褒められるのは間違い。」
まあ度が過ぎた悪質な”いじめ”等が横行している今の世の中一概に不登校を否定する事は出来ませんが、それでも真面目に毎日ちゃんと登校している生徒がいる中でいつも休みがちな生徒がたまたま1回登校しただけで褒められるのは違うって言うのは間違いではないのかな?と僕は思いました。
一応僕も数回程登校拒否を経験した事があるので自身の経験を交えて言ってしまうと大抵の不登校は甘えです。
1回目はアメリカに引っ越した直後です。アルファベットも読み書き出来ない状態で現地校に放り込まれた僕は現地校が辛過ぎて土曜日の日本人学校への登校を拒否しました。土日ぐらいゆっくり休みたいっていう11歳の少年の熱い思いでした。親には無情にも「午前中だけでも行け!」と言われ午前中だけ通っていたのですが、僕と同じ境遇で1日通っている子もいたわけで。たしかにこれは大きな甘えだったなと思います。
これ今だから敢えて過去の自分に厳しく言ってしまうと「甘え」ですよね。
「子供によって差があるから」とか言っていますが、子供によって差があるからと平等に扱わなくて良い理由にはなりません。だって「あの子はストレス抱えながらも頑張っているから他の子をいじめても良い」とはならないでしょう。
それに苦労するのは子供自身だと思うんですよね。
綺麗ごとを抜きにしましょう。親はいつか死にます。1人で生きて行かなければならない時は早かれ遅かれ訪れます。そんな時に子供に「生きて行く力」が備わっている状況をつくってあげるのが親の優しさであって、特別子供に合わせてハードル下げて褒めて伸ばすとか言っている行為って実は凄く意地悪なんじゃないかな?と思いました。
特に僕も親戚も健康な体を天から授かって産まれてきました。
学校に行きたくても行けない子がいる中で色々と自分の中で言い訳を作っているのは自分何だったんじゃないかな?と思いました。
両津の言う通り。
「甘えるのも自分の勝手」だし「ひねくれるのも自分の勝手」だし「投げ出すのも自分の勝手」です。
それがやっと普通に戻った。
そっから更に一歩踏み出して頑張った時こそ賞賛されるべきなのではないかな?と思いました。
さて。
僕は今卒論の研究計画書に追われているにも関わらずこんな記事を投稿しています。
これも僕の勝手。
卒論の内容が賞賛されるべき内容だった際は褒めてください。
僕は褒められて伸びるタイプです。
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