これはまぎれも無く僕の言葉です。
僕は以前サークルで選挙に出た際に100人を超えるサークル員の前で言った言葉です。この言葉に嘘や偽りはありません。直近の数年間ですと僕はサークルと言う場で一番苦しんできました。たかだか趣味のサークル活動かもしれませんが、なかなか結果が出ず苦しんだ時期が何度かありました。
だからこそ同じように思い悩む後輩に向けて言ったのがこの「頑張っていれば誰かが必ずどこかで見ていてくれる!」と言う言葉です。しかしこの「頑張る」と言う事はそんな甘いものでは無いと思います。
僕は「帰国子女だから英語が出来て羨ましい」と言われる事に並々ならぬ不快感を感じてきました。小さな人間だと思われるかもしれませんが「帰国子女=英語が出来る」と判断するのは物凄く失礼だと思います。別にアメリカに住んでいたから英語が話せるわけではありません。言葉も文化も価値観も何も通じない環境で3年間もがき続けてようやく習得した英語です。
断言します。帰国子女だからって皆が皆英語が出来るわけではありません。
アメリカにいるころの僕の友人の韓国人の男は3年間本気で努力し続けましたが結局最後まで英語を喋れるようにはなりませんでした。社会的弱者となった彼は同じ韓国人のグループからはいじめられ、かといって彼の努力も虚しく彼自身も英語を話せるようにはなれず。どれだけ血のにじむような努力を重ねてもその努力が実を結ばない人だっているんです。僕は中学卒業と同時に日本に帰国してしまったのでその後彼がどうなったのかはわかりません。
今回は自分の体験談を書くために「帰国子女だから英語」と言う言い方をしましたが、「プロ野球選手はやっぱり球が速いな!」と言うのも凄く失礼な言い方だと思うのです。野球だって同じです。僕の英語なんかとは比較出来ないほどの努力をしたからこそ、彼らは球が速いんですよ。プロ野球選手なら皆球が速いわけではありませんし、球が速い選手はそれ相応の努力をして来ているはずです。それを「○○だから○○が出来て羨ましい」とか「○○だから○○出来て当たり前」みたいな言い方をするのは失礼なんじゃないかなと思います。
確かに僕は「○○だから○○出来て当たり前」と言われる度に不快に感じておりますが、それは仕方の無い事だとも思っております。「努力」は他人からは見えないものですし、本来評価されるべき対象ではないからです。
もうすぐ受験のシーズンの到来ですが受験なんか最たる例だと思います。もしも本当に「努力」が評価されるならば試験なんて要らないはずです。頑張った人は皆合格で良いじゃないですか。どれだけ「努力」すれば結果に繋がるかわからない中で努力をするからこそ、そこから産み出される「結果」に価値があるんですよ。それなのに「頑張っているのになんで○○なんだ。」とネガティブになるのは違うと思うんです。頑張っているのは皆同じですし、努力と言うのは結果が伴って初めて評価されるものです。思うような結果がでないのは努力が足りないからです。
もし本当に結果を出したいならば寝る間も惜しんで努力すれば良いじゃないですか!それでも結果が出なかったらその時は納期を伸ばすか諦めれば良いのです。体がついて来なかったらきっとその目標は今の自分には高過ぎたのです。どうしても達成したければ成長してから再度挑戦すれば良いのです。
目的は努力じゃないはずです。努力は目的達成のための過程ではないでしょうか?そうしたら当然評価して欲しいのも努力では無いはずです。たしかに努力することによって得られるものは沢山ありますし、努力した分だけ自分に還元されることも沢山あると思いますが、それは他者の評価の対象では無いと思います。ならば結果が出るまで愚直に頑張りましょうよ。
僕は絶対に結果が出るまではその過程を評価しないようにしています。
余程強く無い限り人は努力を認められると安堵し努力の手を緩めてしまいます。なので僕は基本的に頑張る人を鼓舞する時は「まだまだだろ!」とか「もっとできるだろ!」と可能性を信じて背中を押すようにしております。
「頑張っている!」なんてのは綺麗ごとです。頑張ったからといって必ず結果が出るわけではありませんし評価されるとは限りません。夢を叶えられる人間なんてほんの一握りです。それでも夢を掴む人間って必ず努力をしています。そんな夢の実現を信じて、いつ結果に繋がるかわからない努力を誰からも認めてもらえなくてもひた向きに継続できる人間は魅力的です。
もしかするとその努力は一生実を結ばないかもしれません。一生評価される事は無いかもしれません。
それでもその壁に挑んで行けるその強さに僕は魅力を感じます。だから僕は完全成果主義の世の中で愚直に頑張る人は魅力的だと思います。
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