僕は「努力」とか「本気」って言葉が大嫌いです。
目標に向かって愚直に突き進む人は好きですし、そういう人でありたいと思っていますが、どうもこの「努力」って言う言葉が好きになれないのです。
じゃあここで皆さんに聴きます。
「努力ってなんですか?」
ひいては
「何をしたら努力なんですか?」
僕は自身の弟は「努力家」だと思っています。
彼はダメ兄貴が高校大学と7年間私立に通い(しかも1年間浪人して予備校代までむさぼった)家計に負担をかけるなか、私立の中学高校に特待生で通いストレートで国立大学に合格を決めました。間違いなく我が家の家計を救ったのは彼です。
しかも、彼は6年間こつこつと勉強を続け、受験の年だけ本気出して受験を頑張ったかのような顔をするのではなく、しっかりと部活動と受験勉強を両立して6年間頑張り抜いたところが尊敬に値すると思っています。
ただ僕は思うんです。
じゃあ6年間頑張った彼は本当に「努力家」と呼べる存在なのでしょうか?
おそらく彼自身自分のことを「努力家」だなんて思っていないと思います。
彼は確かに6年間文武両道を貫いて超難関の国立大学へ入学しました。
が、しかし、
3歳の頃から英才教育を受けて15年の時を経て満を辞して大学受験をした人と比べれば「総合努力時間」はぶっちぎって少ないはずです。
中学受験の分を入れても彼が勉強したのは「8年間」です。
時間だけ見ると「15年」もののサラブレッドには勝てません。
実は僕もよく「努力家」なんて言われます。
中学校時代は朝5時とか6時に学校へ行きバスケットボールの自主練習をしていました。
朝練があったのは月曜火曜金曜だったので週に3回は5時から走り込みをしていたことになります。
夜も学校が閉まる20時まではひたすらシュートの練習をしていました。
大学時代はアカペラに打ち込みました。
夏休みは毎日楽譜を1個作って耳を鍛えていました。
歌が上手くなるように走りこんで肺活量も鍛えました。
ただ結果を見ると、
バスケットボール部ではスターティングメンバーとしての活躍はありませんでしたし、
アカペラも全国に名を轟かせるような有名な奏者にはなれませんでした。
これは果たして本当に「努力家」なのでしょうか?
結果が出なくてもひたむきに頑張り続ければ ま だ 努力家と呼べたかもしれませんが、
バスケットボール部は中学校まで、アカペラに全てを捧げたのは大学までです。
これは果たして本当に「努力家」なのでしょうか?
僕は「努力する人」や「努力している自分」が大好きです。
人の本気には、自分や周りを変えていく力があると思っています。
だからこそ、この「努力」と言う言葉が持つ美徳のようなものが嫌いなんです。
努力って本来人に見せびらかすものではないですよね。
そんなに光り輝くような綺麗で美しいものでもないんです。
汗と血と涙が滲んだ泥臭くて汚いものが努力だと僕は思っています。
だからこそ汚くて結果に結びつくかもわからない茨の道を突き進む人が好きです。
そして「努力」をさも綺麗なアクセサリのように着飾る風潮が嫌いです。
その人が本当に努力したか?
何時間、何年間やれば努力になるのか?
こんな問いに答えはないと思っています。
本人が「やりきった!」と納得し諦めがついた時か、
夢が実現した瞬間、努力は初めて努力と言えるものになる!
これが僕なりの答えです。
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