これは完全に僕の主観なのですが「後輩を”育てる”」って言うと少し気持ち悪さのようなものを感じます。
正確に言うと「育てる」と言う言葉がさもカッコ良さげな先輩の言葉であるかのように扱われていることに違和感を感じるのです。
特にこと大学のサークル活動では「育てる」なんて偉そうなことを言ってもたかだかアカペラ経験って1年2年まあ多くて3年程度しか違いません。
どれだけ頑張って教える言ふても所詮僕等は部活動の顧問や外部コーチのように指導者ではありません。
「育てる」なんて言うと響きはカッコいいかも知れませんが、後輩よりも自分の方が出来ると言う一種の”おごり”のようなものが無ければ「育てる」なんて言えませんし、そもそも聴こえの良い言葉を言ったところで「本当に自分が育てて後輩が出来るようになるのか」と言う責任もつきまとうわけであります。
僕は中学ではバスケットボールに打ち込んでおりました。
後輩の中には自他共に認める僕より上手いやつもいました。
高校時代は埼玉の北朝鮮と呼ばれる校則の厳しい高校で晴天を眺めていたら終わっていました。←
大学の4年間はアカペラサークルに所属しておりました。
後輩の中には僕より音感が強いやつもいれば、
僕より音楽性に秀でた音楽経験の長いやつもいれば、
僕よりセンスがあって僕には到底思いつかないフィルを打って来るやつも居ました。
じゃあ僕は後輩から学ぶことは無いのか?
後輩から育てられることって無いのか?
否。
当然あります。
4年生になってからも当時2年生の後輩を見てインスパイアされましたし、
彼ら彼女らと積極的に関わって行くことで実年齢にして3歳も下の後輩から育てられました。
先輩だから後輩に向かって「育てる」って言うのはどうなのでしょうか?
後輩育成は大切なことではありますが、
先輩が後輩から育てられると言うことを忘れてはいませんか?
ベクトルが一方通行になってはいないでしょうか?
それでも純粋無垢な後輩はしばしば僕に「先輩に育ててもらったおかげです!」なんて言ってくれます。
これは僕にとってなんとも嬉しいことなのですが、
この場を借りて僕は全力で否定させていただきます。
「僕はお前を育てた覚えは無い!」
僕は後輩の長所が輝き正当な評価を得るための阻害要因となっていたものを取り除いただけです。
結果もともと90あった後輩の長所にしっかりとスポットがあたるようになってさも上手くなったかのように聴こえただけなのです。
そもそも後輩が何か出来るようになるのって結局は”本人が頑張ったから”であって先輩の力ではないのです。
バットを振らない野球少年が10年間イチローに野球を習ってもイチローにはなれません。
それと同じでたかだかたった数年経験があるアマチュアの先輩に数年間習ったところで必死に練習しなければ出来るようにはならないのです。
もちろん先輩とバンドを組むと
先輩の音楽への向き合い方や先輩からの要望にこたえているうちに
自分が今一番取り組むべき課題が見えやすくなったり、
その壁を越える上で必要不可欠なヒントを得る機会が増えたりすることは否定できません。
が、しかし、
結局は頑張ったやつが成長しますし育ちます。
水や肥料を与えるのが先輩であったとしても、
その水や肥料を吸収して育つのは結局新芽なのです。
勿論自分が憧れたカッコいい先輩の背中を追うことは大切です。
そして特別お世話になった先輩には「育ててもらった」と思うのは当然だと思います。
事実
僕も沢山の先輩に”育てて”もらいました。
ただ絶対に勘違いしてはいけないと僕は思うのです。
これ“育ててもらった”って言うのは勝手に僕が思っていることであって先輩が強要したことではありません。
それと同じように自分が先輩の背中に憧れて
先輩のような先輩になりたいと思った時に恩着せがましく「育てる」なんて口にしちゃうのは違うと思うのです。
後輩と歌って行く中であるのは「育成」っていう一方通行のものではなく
「切磋琢磨」と言う相互に刺激し合える関係であるべきだと思いますし
実際に後輩に一方的に教えて自分は後輩から教わらないなんて事は絶対にあり得ないです。
先輩も後輩もお互いにお互いから沢山教わって
お互いの歌や音楽への向き合い方から盗めるところ沢山盗み合えると素敵なのではないでしょうか?
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